マイセンのブログ

アニメのレビューとウマ娘の攻略記事がメインです
Twitter→@mysen777

【名馬列伝】アイネスフウジン【風神】

マイセン

「ナカノコール」で大変有名な第57代ダービー馬であるアイネスフウジンの紹介記事となります。

◆生い立ち

母テスコパールは期待されながらも病気の影響から競走馬としてデビューできず、そのまま繁殖牝馬となりました。
この病気は獣医もサジを投げるほどの重病でしたが、生産者の中村吉兵衛氏が「どうせ助からないなら、うまいものをたくさん食べさせてやりたい」と良質の餌を与え、水を好きなだけ飲まます(水は生では飲ませられないので、電気湯沸かし器のない時代に一晩中火で煮沸してから冷ました湯を作り続け、それを与えていた)。
加えて体に良いとされる薬を買い漁って飲ませるという、処分されて然るべき馬に愛情を注いだのです。
この牝馬から後のダービー馬が生まれるとは、誰も思っていなかった事でしょう。
テスコパールの7番目の仔として 1987年4月10日に生まれたアイネスは「テスコホーク」という幼名を付けられます。
当歳の頃から馬体の評価が高かったテスコホークを見出したのは、母テスコパールを競走馬として管理する予定だった加藤調教師でした。
加藤調教師は、冠名「アイネス」を用いる小林正明氏から幼駒調達のすべてを任されており、小林氏が所有する幼駒を探していた頃にテスコホークと出会います。
まもなく小林氏の所有が決定し、馬名な冠名のアイネスに「風神」を付け「アイネスフウジン」と名付けられます。

◆朝日杯制覇

1989年9月10日、中山競馬場の新馬戦(芝1600m)で中野栄治騎手鞍上でデビューします。
以降全てのレースを中野騎手が乗る事になるのですが、デビュー戦と続く未勝利戦はどちたも2着で、3戦目に初勝利を挙げます。
4戦目は条件戦の葉牡丹賞の予定でしたが、中野騎手はアイネスに確かな手ごたえを感じており、GⅠ競争の朝日杯3歳ステークスへの出走を提案します。
加藤調教師はは距離延長を希望して年末のホープフルS(当時はOP戦)も考えてましたが、最終的に中野騎手の提案が受け入れられます。
加藤調教師は「力試し」のつもりで、アイネスの人気も5番人気と可もなく不可も無くといった処でした。

好スタートをキメたサクラサエズリに追走し、第3コーナー付近では後続に5馬身のリードを付けてのマッチレースとなります。
この時前半の1000mは56.9秒という狂ったタイムでしたが、最終コーナーでサクラサエズリがラストスパートを掛けて更に加速します。
アイネス鞍上の中野騎手は、一旦振り返って後続の様子を確認するほど冷静で、少し遅れてスパートを掛け、残り150mで先頭に立ってからはサクラサエズリを突き放して2馬身半差つけて優勝します。
走破タイム1分34秒4は、1976年にマルゼンスキーが記録した「不滅」とも称された3歳レコードタイでした。
この勝利に競馬評論家の大川慶次郎氏は「相当の大器」「関東牡馬の注目度ナンバーワン」と評価し、年末のJRA賞選考では満票172の内112票を集めてJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞しました。

◆ダービーまでの道のり

一躍スターとなったアイネスの年明け初戦は2月の共同通信杯(GⅢ)でした。
中野騎手は当初控えるレースを経験させようとスタートでわざと出遅れるのですが、他馬とスピードが違い過ぎて一瞬で先頭に立ち、そのまま逃げて3馬身差の圧勝を飾ります。
続く弥生賞では断トツの1番人気になりますが、アイネスの走法に合わないぐらいの不良馬場であり、走る気を失って今後に能力を発揮できなくなる事を恐れた中野騎手は無理をせず、状態の良い馬場の外側で進む事を決意します。
一応予定通りの騎乗は出来たのですが後続と差を付ける事が出来ず、残り200mでメジロライアンに捕まり、他馬にも抜かれての4着でした。

2度目のGⅠとなる皐月賞では、アイネスが1番人気でライアンが2番人気、そこにハクタイセイが加わって「混戦の3強」と言われました。
1枠2番と逃げに有利な内枠を得た事で、中野騎手は「スピードが他馬とは違う。思い切って逃げる」と宣言しますが、発走すると隣のホワイトストーンが内に斜行し内隣の馬と挟まれてぶつかるという不利を受け、十分なスタートダッシュが出来ませんでした。
他馬に先手を獲られ、レースはスローペースで進みます。
基本的にはスローペースの方が逃げ馬にとっては有利なのですが、アイネスにとっては不向きのペースであり、自らを抑える事が出来なくなります。
残り600m地点で加速し先頭に立ちますが、以降は直線で伸びず、中団からアイネスをマークしていたハクタイセイに差し切られてクビ差の2着となります(ライアンは3着)
レース後、敗戦から中野騎手を降板させる声も上がりましたが、加藤調教師は中野騎手に「ダービーは勝とうな」と声を掛け、コンビ続投が決定します。

◆ナカノコール

5月27日、東京優駿日本ダービーには、在籍地である東京都府中市の総人口に匹敵する19万6517人が来場し、世界レコードの観客数を記録します。
皐月賞の上位3頭が再び揃いますが、皐月賞の敗北が響いてアイネスは3番人気に留まり、代わりにライアンが1番人気となります。

5枠12番からスタートすると内枠の馬を制してハナを奪い先頭をキープします。
前半の1000mを59.8秒で通過し、向正面では状態の悪い馬場の内側を避けて逃げ、後方に4馬身以上のリードを守ります。
最終コーナーでは、馬場の内側からハクタイセイとカムイフジが追い上げてきたため、ここからラストスパートを掛けます。
先行馬勢を突き放し、外から追い上げてきたメジロライアン追撃を退けて1馬身1/4の差で決勝戦を通過。
走破タイム2分25秒3は、1988年のサクラチヨノオーが記録した東京優駿のレコードタイムを1秒更新する勝利であり、1975年のカブラヤオー以来となる逃げ切り勝利となりました。

アイネスは入線直後に躓くほど余力が無く、キャンター(駈歩)する事が出来ない状態だったため、ゆっくり戻る事になります。
他馬が向正面から馬場を去ってもモタモタしている状態で、スタンド前から退場しようという事になります。
観客はレースが終わり数分経過していたのですが、ゆっくり退場しているアイネスに注目し、多くの方がその場に留まります。

アイネスがスタンドに近づくにつれ、観客の若者から手拍子に合わせて自然発生的に「ナ・カ・ノ!ナ・カ・ノ!」と歓声が湧き起こります。
するとコールは競馬場内の老若男女に波及し、やがて競馬場にいる19万人超の合唱へと変化、音量はスタンドを越えて正門付近でも聞こえるほどだったそうです。
この行為は後に「ナカノコール」と呼ばれる様になります。
ナカノコール以降、勝利した馬や騎手をコールで称える文化が生まれ、主催する日本中央競馬会(JRA)も大レースでの入場制限や警備、救護などを強化するきっかけとなりました。


その後、左前脚の屈腱炎と診断され福島県いわき市にある温泉施設で療養などを行って復帰を目指しますが、思う様に回復せず現役引退を発表します。
JRAからは引退式を薦められますが「脚部不安で引退するので、フウジンを馬場には出せない」という関係者の意向で行われませんでした。

◆惜しまれる才能

日本ダービーを逃げで勝利した馬は非常に少なく、アイネスが出したダービーレコードは1999年にアドマイヤベガがタイレコード、そして2004年にキングカメハメハによって更新されるのですが、14年間も抜かれなかったのは凄いと言わざるを得ません。
体型的には強力なトモ(お尻)をしていた割に前脚が弱かったそうで、中野騎手は「前のタイヤがパンクした自転車に乗ってる感じ」と評してます。
前後のバランスが取れていないため、不慣れな方が調教で乗ると止まった時に落馬する事もあり、不用意に手綱を引くと均衡を失って騎手との連携が取れなくなる事もあった事から逃げという戦法に固定化されました。
敗北したレースでも抜かれないとする勝負根性もあった様で、怪我が無ければいくつものビッグタイトルが獲れていたかもしれないだけに、アイネスの引退を惜しむ声が多かったと聞いております。
種牡馬としてはファストフレンドが帝王賞・東京大賞典を勝利しますが、他に活躍した仔は特にいませんでした。

◆ダビスタで

ファミコン版のダビスタにおいて、アイネスフウジンが超絶に強くて何度も泣かされました。
ダービー時のアイネスはそれほどでも無かったのですが、朝日杯時は勝つのが非常に困難でトラウマを植え付けられましたw
共感して下さる方がいたら嬉しいです。

時が経ち、まさかアイネスフウジンがアイドルになってブルボンやマルゼンスキーと一緒に歌うだなんて思っても見ませんでした。
私はダビスタの影響で「アイネスフウジンは超強い」と刷り込まれておりましたが、後に色々調べて本当に強かった事を知りました。
決して「ナカノコール」だけで有名になったという訳では無い事を、多くの方に知って頂けましたら幸いです。
それでは、良きウマ娘ライフをノシ

にほんブログ村 ゲームブログ スマホ・携帯アプリゲームへ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する