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【名馬列伝】セイウンスカイ【トリックスター】

最強世代の一角を担い、クラッシックシーズンを大いに盛り上げたセイウンスカイの紹介記事となります。

◆誕生までの経緯

1995年4月26日、北海道鵡川町の西山牧場に誕生します。
誕生当時の西山牧場は創業者である西山正行氏の方針により、最大250頭もの繁殖牝馬と自家繋養の種牡馬や種付け料が安価な種牡馬の産駒を中心とした大量生産・大量消費の体制をとってましたが、それに伴う管理費の肥大化や繁殖牝馬の血統更新の停滞、導入した種牡馬の失敗などの影響により不振に陥ってました。

翌1996年、西山正行氏に替わって息子の茂行氏が牧場経営の主導権を握ったことを皮切りに、それまでの大量生産・大量消費体制から少数精鋭体制への転換を試みて、繁殖牝馬を250頭から50頭まで整理、自家繋養の種牡馬もほぼ全て外部へ売却するなど大幅な改革を行います。
セイウンスカイの父・シェリフズスターもこの改革に伴って廃用となり、残された産駒は破格の値段で次々と売却されていきます。
その結果、調教師の要望で売り残した3頭の産駒の中にいたのがセイウンスカイでした。

◆幼駒時代

育成段階でもとくに目立つ処は見せず、当初入厩先として話を進めていた栗東のとある調教師はセイウンスカイ(以下ウンス)を受け取りには来ませんでした。
その後、調教師免許を取得したばかりの保田一隆氏が、定年で引退する父親の保田隆芳氏と入れ違いに厩舎を開業するため、入厩馬を探して父の代から付き合いのある西山牧場を訪れます。
当時のウンスは馬体のバランスが悪く、毛色もくすんだ印象のため見栄えがしませんでしたが、入厩馬の数が揃わなかった事を理由にウンスを引き取る事にします。
その後成長したセイウンスカイは、3歳の秋には見違えるほどバランスが良くなり保田氏を驚かせますが、同時に気性の激しい面も露呈します。
1997年10月1日、美浦の保田厩舎に入厩。
調教を積むごとに素質を見せ、かつて2冠馬ミホシンザンの調教をつけていた調教助手の青柳義博氏に「これは走る」という印象を抱かせる様になります。

◆デビュー当時

1998年1月5日、中山芝1600mの新馬戦にてデビューしますが、血統が悪い&大外枠を引いたため5番人気での出走となります。
結果は6馬身差の圧勝。
続くジュニアカップもスピードの違いであっさり逃げを打つ戦法で5馬身差で圧勝します。

しかしこのレースの枠入りで、ゲート後ろで立ち止まった処をスターターにステッキで叩かれた事からゲートを嫌う様になり、後の競走生活に尾を引く事となります。


重賞初挑戦の弥生賞は、ジュニアカップ出走後から悪化したソエによる影響で、十分に調教が積めない状態での出走となります。
レースではジュニアカップ同様逃げるモノの、最強世代の主人公が立ちふさがります。

結果は2着で、3着にはキングヘイローが入着します。
この弥生賞以降スペ&キングとあわせて、1998年牡馬クラシック戦線の3強を形成する事になります。

◆クラッシック期前半

3冠1戦目の皐月賞では、スペシャルウィークに続いて単勝5.4倍の2番人気に推されます。
枠入りでは嫌がる素振りを見せますが、道中はコウエイテンカイチを先に行かせて2番手を追走、前半の通過タイムが60秒4とよどみない流れで後続が脚を使わされているなか、第4コーナー手前で楽な手応えのまま先頭に躍り出ると、キングとスペの猛追を抑え一冠目を制します。
西山牧場にとっては初の牡馬クラシック競走制覇であり、このレースから騎乗した横山典弘騎手もクラシック初制覇でした。

皐月賞後、枠入り不良で発走調教再審査となりますが、ゲート試験を無事一発で合格しダービーに挑みます。
皐月賞はマグレと見られていたせいか、人気はスペ&キングに次ぐ3番人気でした。
キングが逃げを打ちますが、2番手追走のウンスがキングを捕らえ先頭に立ちますが・・・

並ぶ間も無くスペにかわされ敗北します(4着)
展開が多少早かった事や直線が長かったのが敗因かもしれません。

◆クラッシック期後半

秋初戦は古馬との混合重賞である京都大賞典でしたが、何故4歳限定のレースに出なかったのか?
それはもし4歳限定の京都新聞杯に出走し、ゲート難を披露してゲート再審査となった場合に日程的に菊花賞に出走出来なくなる為でした。
このレースにはメジロブライト含む強豪馬が多数出走してましたが、前半ハイペースで飛ばし後続を引き離し、第3コーナー手前で一旦ペースを落として後続を引きつけた後、ラスト2ハロンで再び突き放しに掛かるという器用なレース運びで勝利します。

クラッシック三冠の最終戦である菊花賞では再びスペ&キングと対戦します。
前半1000メートルを59秒6という暴走ともいえるハイペースで飛ばし、中間の1000メートルで64秒3と一気にペースを落とし、2週目の坂の下りから早めのスパートを仕掛けるというトリックスターの異名に相応しい競馬を披露し、

セーフティーリードを保ったまま最後の1000メートルを59秒3で駆け抜けて、スペを3馬身半離して勝利します。
3000メートルの長丁場を逃げ切るのは至難の業であり、菊花賞の逃げ切り勝ちは1959年のハククラマ以来38年ぶりです。
更にこの時の優勝タイム3分3秒2は当時の3000メートルの世界レコードでした。
続く有馬記念は荒れた馬場の影響もあり、同期のグラスワンダーの前に4着に敗れます。

◆シニア期

古馬になってからの初戦は日経賞で5馬身差の圧勝でした。
しかし、2番人気で迎えた天皇賞春ではスペとメジロブライトに差し切られて3着でした。
休養後の札幌記念では「馬の行くままに任せる」という横山騎手の判断で、珍しく後方からのレース運びで3コーナーからの捲りで勝利します。

1番人気で臨んだ天皇賞秋。
ファンの期待が掛かりましたが、本馬場入場時にダイワテキサスと接触した上に、枠入りを約5分間に渡って嫌がるアクシデントなどもあり5着に敗退します。
この枠入り不良事件は、枠入りの指示について厩舎側と発走委員の間で責任のなすり合いとなり、ウンスは1ヶ月の出走停止処分を受けてしまいます。
更にレース後に屈腱炎を発症し、長期休養を余儀なくされると踏んだり蹴ったりでした。

◆長期休養を経て

屈腱炎による長期休養の後、復帰したのは前走の天皇賞秋から約546日後となる2001年の天皇賞春でした。
レース当日のウンスはイレ込みが激しく、スタート直後からタガジョーノーブルと並走する形となり、生涯最速となる1000メートル通過58秒3のハイペースで逃げます。
しかしタガジョーノーブルに先頭を譲ると、2周目第3コーナーで早々に失速し、勝ったテイエムオペラオーから16秒近く離された最下位に敗れます。
宝塚記念の出走を回避した後、橈骨を痛めた事から7月に引退が決まり、8月19日に札幌競馬場で引退式が行われました。

◆種牡馬の実績

現役時代の休養からの復帰が結果的にうまくいかず、引退時期が遅れた格好になった上、血統的な評価が低い事もあり同世代(キング&スペ&グラスなど)と比べて人気が上がらず種付頭数が圧倒的に少ない状況でした。
一時は障害用種牡馬としてアイルランドに輸出するという話も挙がったほどの不人気具合で、種牡馬としては成功する事が出来ませんでした。

それなのにオーナーの西山氏の意向により、西山牧場の看板娘であるニシノフラワーと交配する事が出来ました。
産駒は実績を挙げる事が出来ませんでしたが、ウマ娘でのこの二人の絡みは本当に尊いと感じております。

◆人間ぽい?

主戦騎手であった横山騎手はセイウンスカイについて「親友みたいな感じだった。どんなことをするのか、いつもワクワクしていた。人間味があるって言うとヘンだけど、人間っぽかった」と評してます。
また横山騎手は秋の天皇賞後の長期休養中、ライターの平松さとし氏に「この馬が復活したら、一冊の本にしてもらえないかな…」と話を持ちかけるなど、思い入れは深かった様です。
ちなみに長期間運転免許を持って無かった横山騎手は、騎手紹介の愛車の欄に「セイウンスカイ」と書かれた事がありますw

スペ、エル、グラスと比較すると実績は劣るモノの、故障さえなければもっと活躍出来たはずでした。
菊花賞で魅せた走りは本物であり、気性難でありながらも器用な競馬が出来る馬でもありました。
一つ間違えばクラッシック三冠と、他にも多数のG1を勝てていたかもしれない名馬であったという事を多くの方に知って頂けましたら幸いです。
それでは、良きウマ娘ライフをノシ

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