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【名馬列伝】ツインターボ【逃亡者】

大逃げの代名詞ともいえるツインターボ師匠の紹介記事となります。

◆デビュー前

1988年、北海道静内町の福岡牧場に生まれます。
幼駒時代から強い身体のバネを備えてはいたのですが、食が細く非常に小柄かつ臆病な馬でした。
日高ケンタッキーファームで育成調教が積まれた後、競走年齢の3歳を迎えた1990年春に茨城県美浦トレーニングセンターの笹倉武久厩舎へ入厩します。
馬房では大人しい馬でしたが人が跨ると徹底的に反抗する性格で調教に手間取り、デビューに向けての必修審査となるゲート試験の通過に4か月も掛かってしまいます。

◆クラッシック期

ゲート試験の合格が遅れたため、4歳になってからのデビューとなります。
1991年3月2日、中山開催のダート戦でしたが笹倉調教師は騎手に「好きなように走らせろ。ハナに立てったらあとは舵をとるだけでいい」という指示を与え、2着に3馬身差を付けて見事勝利します。
次走の条件戦も逃げ切って連勝。


続いては日本ダービーへの出走権確保のため、トライアル競走の青葉賞(2400mのOP)に出走しますが、最後の直線半ばで失速して9着に終わります。
続く条件戦も5着と敗れますが、

重賞初出走となったラジオたんぱ賞では、向正面で後続に大きな差を付けるレース運びから最後の直線を逃げ切り、重賞初勝利を挙げます。
ちなみに笹倉調教師にとっても初めての重賞制覇でした。
休養後はセントライト記念から始動し、ダービー2着のレオダーバンを抑えてクビ差の2着と逃げ粘ります。
この後は菊花賞を回避し、ラジオたんぱ賞と同じく福島競馬場で行われる福島記念に出走し2着となります。

年末には初のGⅠ挑戦で有馬記念に出走しますが、14着だった上にレース後に鼻出血してしまいました。

◆雌伏の時

体調を崩して長期休養を余儀なくされ、1992年11月に福島民友C(OP)で復帰します。
1番人気に支持されるも10着に終わり、更に3連敗します。
7月に入り、得意の福島競馬場で行われる七夕賞で再起を懸けます。
「スターホース(笑)が福島に来るぞー」
という事で、福島競馬場の入場人員記録となる47391人ものファンが駆けつけ、この時から鞍上も逃げ戦法が得意な中舘英二騎手に変わります。

中舘騎手自身も新馬戦から師匠の走りに注目し「一度乗ってみたい」と考えていたそうです。
レースは師匠が前半1000mを57秒4というハイペースでかっ飛ばし、全ての馬をバテさせるという泥試合に持ち込み、2着のアイルトンシンボリに4馬身差をつけて勝利します。
約2年ぶりの勝利でしたが、ギリギリで勝った様に描かれていたアニメとは違い圧勝といえる着差でした。
ゴール前の「吠えろ、ツインターボ!」という実況は今でも忘れられません。

◆伝説のオールカマー

2か月後、秋初戦としてオールカマー(当時はGⅢ)に出走します。
出走メンバーはメジロマックイーンを下したライスシャワーを筆頭に、桜花賞馬のシスタートウショウ、GⅠ常連のイクノディクタスやホワイトストーンなどがおり、単勝は3番人気の師匠でしたが馬連の方はそうでも無かった事から本気で勝つと思ってた方は少なかったはずです。
レースはいつも通りスタートから先頭を奪い、向正面では2番手ホワイトストーンに約10馬身、さらにその後続集団まで10馬身以上という大差を付けて逃げ捲ります。
前走の七夕賞のイメージが強かった為「アイツについてくとバテてしまう」と思い込んでしまい無理して追走する馬はおらず、前半1000m通過は59秒5と少し早い程度のペースでした。

当時も師匠が大好きな私でしたがそれはネタキャラ的な立ち位置で、勝つ可能性はほぼほぼ無いと思って余裕ぶっこいて観戦していたのですが・・・

「ツインターボだけが4コーナーのカーブに入ってきました」

↑この時の私

見事に決めたぞ!逃亡者!ツインターボ!!
別の記事にもボカして書いてましたが、正直に言います。
私はこのレースで100万近い現金を失いました。
師匠が2着に5馬身差を付けて圧勝。
中舘騎手はレースのパトロールフィルムを見た際の感想として「何でこんなに離れているんだろうって、信じられなかった」と語っております。

◆最高のエンターテイナー

次走に臨んだ天皇賞(秋)では前日発売で1番人気、当日は3番人気に支持されますが、逃げ潰れて最下位17着。
以後4連敗し明らかに全盛期を過ぎた感がありましたが、JRAからの推薦枠で有馬記念に出走します。

結果はこの2頭で決まりますが、当時ブライアンとハヤヒデの兄弟対決が実現しなかった事と、古馬の層が薄かった事もあり「盛り上がりに欠けるので出走して欲しい」とJRAから強い要望があったそうです。
連敗続きだし、有馬記念は過去に大敗しているため勝てる確率はほぼ無いと関係者も分かっていそうですが出走を決意し、師匠もエンターテイナーとしての役割を十分に果たしました。
その後は入着する事すらままならず、1995年には公営・上山競馬へと転厩し、1勝をあげた後は連敗を重ね翌1996年に引退します。
引退後は宮城県の齊藤牧場で種牡馬入りするも、5頭の産駒を残したのみで、1998年1月15日に心不全で死亡します。

◆師匠の人気について

逃げ切り圧勝か、失速惨敗というレース振りから「玉砕型」と呼ばれるタイプの逃げ馬の象徴的な存在となっており、2004年に日本中央競馬会の広報誌「優駿」が行った「個性派ホースベスト10」という企画において、1980-2000年代の逃げ馬部門で識者・読者双方の投票でいずれもサイレンススズカに次ぐ第2位に選ばれます。
この企画でツインターボの講評を担当した山河拓也氏は、
「玉砕また玉砕。しかし、99回玉砕しても百回目には逃げ切るんじゃないか、と期待された」
「観客の頬はどれも『いつ止まる?』と緩んでいた。そして失速後退の瞬間、彼の馬券を握っていた者も握っていない者も大声で笑った。悲壮感なき玉砕。こんな馬、他に誰がいるか。いない。ツインターボだけだ」と評しました。
また、競馬漫画家のよしだみほ氏は自著の中で、
「あの大逃げが決まったときは本当に気持ちよかったし、逆につかまるときも良かったよね」
「大きいところは勝ってないけど、こういう馬がいないと競馬は楽しくないよね。大好きな馬でした」と語っておられます。
こうした人気は、日本中央競馬会が2000年に行った名馬選定企画「Dream Horses 2000」でファン投票により848票を集め、第91位に選ばれたところにも反映されており、GⅠ未勝利馬の100位以内選出は、他にステイゴールド(企画実施後にGⅠ勝利)とナイスネイチャのみでした。
なお2014年に行った「JRA60周年記念記念競走メモリアルレース」として、この年の七夕賞の準メインレースとして「韋駄天 ツインターボカップ」が行われました。
レース名はファン投票で決められ、師匠は2位のミヤビランベリの倍以上の得票数を獲得しております。

◆師匠の強さについて

中央競馬の重賞を勝ってる時点で高い能力がある事は確かですが、重賞級の馬の中ではどうだったのでしょうか?
大逃げの戦法は小柄な体躯と臆病な性格の為そうせざるを得なかったと言われておりますが、それに加えて「返し馬でも全力疾走してしまう」ほどの猪突猛進な性格のせいでもありました。
もし周りにビビらず、ちゃんと折り合いの付く馬であればGⅠでも通用する走りが出来ていたかもしれません。
それについては意見の分かれる処ではありますが、同期のトウカイテイオーにも負けない能力が師匠には一つだけあります。

それは根性です。
当時「ターボはいつも口の周りが白いな?」と思っていたのですが、後にこれが泡だと知って驚きました。
完全に体力が尽きて並みの馬であれば後退している処を、師匠は泡を吹きながら頑張っていたのです。

ウマ娘のヒミツで「ムーンウォークが得意」と書かれておりますが、これはバテて後退する時が「まるでムーンウォークをしている様に見える」と言われてたからなのですが、そんな華麗なモノでは無く、どの馬よりも必死で走っていた師匠には何度も心を打たれました。
だから100万負けても許せたのかもしれませんw

◆令和のツインターボ

世界のパンサラッサが実況で「令和のツインターボ」と呼ばれた事については賛否の分かれる処ではありますが、昔ながらの競馬ファンである私は嬉しい気持ちしかありませんでした。
ツインターボという馬はそれだけ人の心に残る馬であり、間違い無く名馬であるはずです。

宜しかったら実馬のレースも観てみて下さい。

それでは、良きウマ娘ライフをノシ

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