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【名馬列伝】ミスターシービー【天衣無縫】

追込という脚質でクラッシック三冠を達成したにも関わらず、イマイチな評価を受けてしまったミスターシービーの紹介記事となります。

私の中では「実績以上に様々な可能性を魅せてくれた名馬」という評価です。
勝負事に「たら、れば」はナンセンスだという方もいらっしゃいますが、もしこの馬がファンの期待に応えるでは無く、適正に合ったレースに出走していたら・・・と思ってしまうのです。

・出生

1980年4月、母シービークインの預託先であった北海道浦河町の岡本牧場で生まれる。
父トウショウボーイは1976年の皐月賞・有馬記念を制し「天馬」と称され一時代を築いた快速馬、母シービークインも重賞3勝を挙げた実力馬であり、両馬は競走馬時代に同じ新馬戦でデビューしている。
出生後の幼名は特になく、競走名を付けられるまでは暫定的に「シービークインの1」とされた。
トウショウボーイの産駒は総じて後躯の重心が安定せず「腰が甘い」馬が多いと言われていたが、本馬の腰はしっかりとしており「トウショウボーイの良いところだけを全てもらったような馬」と評判となった。
その後岡本牧場で離乳を終え、翌1981年3月、シービークインの所有者・本馬の公の生産者である群馬県片品村の千明牧場に移動、育成調教が積まれた。
競走年齢の3歳に達した1982年春、競走名「ミスターシービー」と名付けられ、茨城県美浦トレーニングセンターの松山康久厩舎に入る。
馬名には前述の初代・本馬ともに、生産者である千明牧場 (Chigira Bokujou) を代表する馬という意味が込められていた。所属は初め、シービークインを管理していた松山吉三郎厩舎が予定されていたが、吉三郎の都合により息子の康久へと変更になったものである。
ミスターシービー - Wikipediaより抜粋

・ジュニア期

11月16日、東京開催の新馬戦でデビューを迎えます。
鞍上は母の主戦騎手でもあった吉永正人が務め、以後引退まで一貫して吉永騎手が騎乗します。
この初戦は先行策から2着に5馬身差を付けて快勝し、初戦勝利を挙げます。
2戦目の黒松賞(400万下条件戦)では、スタートの出遅れから先行勢に追い付いていく展開となり、直線での先行馬との競り合いを制してのクビ差辛勝でした。
そして年末に出走したひいらぎ賞(800万下条件戦)では、発走時に発馬機内で激しく暴れた末に、スタートで再び大きく出遅れてしまいます。
前走では先行集団に追い付くまでに体力を消耗していたため、吉永騎手は無理に前を追い掛けず、そのまま後方待機策を取った結果、先行したウメノシンオーにクビ差届かず、ミスターシービーは初の敗戦を喫します。

・クラッシック期前半

共同通信杯と弥生賞を連勝したミスターシービーはクラッシック1冠目の皐月賞に出場します。

この日は追込馬にとっては不利な不良馬場でしたが、3コーナーでは後方から4頭目です。
ここからじわじわと中団まで押し上げてイキ、最終直線でごぼう抜きで勝利します。

続く日本ダービーでは単勝オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に推されながらもスタートで出遅れて最後方からの競馬となります。
20を優に越える頭数で行われていた当時のダービーには「10番手以内で第1コーナーを回らなければ勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがありました。
しかしシービー↑の時点でまだ後方から4番手です。
「苦しい競馬です。ミスターシービーはまだ苦しい競馬です!」
そう実況されてましたが、

「ミスターシービー強い!ミスターシービー強い!ミスターシービーが優勝!!」
最終直線では明らかに他馬との足色が異なりました。
大外をぶん回してあの末脚は勝つべくして勝ったと言えます。
これでクラッシック2冠です。

・クラッシック期後半

夏場の休養中に挫石を起こして蹄を痛め、さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪をひいてしまいます。
これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯に切り替えられます。
前走から12kg増と太め残りとなった京都新聞杯では先頭から7馬身差の4着という結果に終わりましたが、体調も回復し菊花賞では1番人気に推されました。

1番人気とはゆえ、スタミナ面においてかなり不安視されてましたし、父トウショウボーイも菊花賞で敗北してます。
序盤のコーナーでは後方から2頭目の位置取りで、この後最後方になってしまいます。
「ここから勝てるのか?」
21頭もいるレースではかなり厳しいポジショニングです。

周回2周目の第3コーナー上り坂からシービーが前へ行きたがる素振りを見せると、吉永騎手は手綱を緩めます。
「ゼッケン番号9番のミスターシービーが上がって行った。京都の正面は昇りで行った。昇りで行ったぞミスターシービー」
京都の3コーナースパートといえばゴルシが有名ですが、元祖はミスターシービーだったのです。

そして先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる最終コーナーの下り坂を加速しながら先頭に立ちます。
このレース運びに観客スタンドからは大きなどよめきが起こり、関係者もビックリしたそうです。

「ミスターシービー逃げる逃げる逃げる!史上に残る三冠の足!史上に残るこれが三冠の足だ!19年ぶり三冠ミスターシービー!!」
杉本清アナウンサーの名実況が印象的でした。
ルドルフの様に無敗ではありませんが、追込という脚質でクラッシック三冠を制した馬はこれが初めてで、シンザン以来19年ぶりの快挙でした。


この後のシービーですが、ジャパンカップ&有馬記念を千明牧場の意向により回避しますた。
このローテーションには批判もあり、ジャパンカップの競走前に行われた記者会見では、英紙スポーティング・ライフ記者のジョン・マクリリック氏が「今年はミスターシービーという三冠馬が出たと聞いているが、出走していないのはなぜか。日本で一番強い馬が出ていないのはどういうことか」と、招待者である日本側の姿勢を問い質す場面がありました。
競馬評論家の石川ワタル氏は当時を回想し、休養を優先した陣営の心情に理解を示しつつも「正直なところ、失望した」と述べてます。

・シニア期

翌1984年初戦にはアメリカジョッキークラブカップ出走を予定してましたが、施行馬場が降雪によりダートに変更される可能性が高くなり、出走を取りやめます。
この頃より蹄の状態が再び悪化し、次走予定の中山記念も回避。
春シーズンは全休となります。
10月初旬に毎日王冠で復帰となりますが、約1年ぶりのレースでカツラギエースの2着に敗れます。
それでも上がり3ハロンが33秒7という破格のタイムだったのは流石です。

続く秋の天皇賞では3コーナー突入時に先頭から20馬身差の最後方
最終コーナー手前でも後方から4番手という位置取りでした。

ですが、最終直線で鬼の末脚を魅せて快勝。
走破タイム1分59秒3はコースレコードで、これ以降三冠馬による天皇賞(秋)の優勝馬は存在しません(牝馬三冠のアーモンドアイは除く)

・シンボリルドルフとの対戦

ミスターシービーの快進撃はここで終わりです。
これ以降はジャパンカップ10着→有馬記念3着(ルドルフ優勝)→大阪杯2着→天皇賞(春)5着(ルドルフ優勝)という結果で引退し種牡馬になりました。
シンザン以来19年ぶりの三冠馬な訳ですが、一つ下の世代であるルドルフが無敗で三冠を達成し、直接対決でも全て勝利してますのでミスターシービーの評価が今一つとなってしまいました。

・シービーの評価

有馬記念での敗戦以降は「同期の馬が弱かったから三冠を獲れた」と評された事がありました。
スポーツニッポンのルドルフ番記者であった清水理義氏は「シービーが嫌い」とことわった上で「同齢馬に好敵手がいなかったことが幸運と同時に不幸」であり、晩熟の先行馬カツラギエースの台頭で後方強襲の作戦が通用しなくなった事、さらに自在にレースが運べるルドルフの登場で「シービーの悲劇がここに極まった」と評してます。
ただし清水氏はルドルフとの比較で「馬のもともとの素質で言えば、互いに譲らないスーパーホース」であり、その差は「人間による作られ方、騎手の乗り方」にあったとしている。


吉永騎手は最も調子が良かったダービーの時で、距離が2000mまでならルドルフを負かす自信があると述べてます。
またブランクが多く、ルドルフよりも順調に使うことが出来なかったことが悔やまれるとし「最強馬に一矢報いるだけの実力はあった、と今でも思っているよ」と述べてます。
距離適性については、吉永騎手、千明オーナーが「2000mまでの馬」としており、解説者の大川慶次郎氏は「本来マイラー」、吉永氏と親しかった中島啓之氏は「あの馬の能力は本来スプリンター」、前述の清水氏は「短い距離で瞬発力があるのはスプリンターの証拠。マイラー型までの馬」と評してます。

・吉永騎手の批判について

後方待機一辺倒の吉永騎手の騎乗には当時から批判がありました。
松山氏は菊花賞の後から「こういう競馬を続けているとツケが回るぞ」と言い、千明氏は「吉永の騎乗で四冠を獲ったのは間違いない」とした上で「前に行く競馬もできたのではないか」と回想してます。
またシンボリルドルフの主戦騎手・岡部幸雄氏は「あれでは近代競馬は勝てない」と批判してましたが、1987年のスプリングステークスでマティリアルに騎乗し、後方から一気の追い込みを決めて勝利した際にはこの発言のことが念頭にあったらしく、インタビューでは当時の岡部氏にしては珍しく照れ笑いを浮かべながら「ミスターシービーしちゃったw」という発言を残してます。


吉永騎手はシービーの特長を「一瞬の脚の凄さ、3コーナーからゴールにかけての瞬発力」とし、後方一気に拘ったのはその特徴を生かせると思ったからだそうです。
しかし吉永騎手自身も「三冠を獲るまでに2敗させたのは自分で、騎手が自分でなければ無敗で三冠を獲っただろうし、六冠も七冠もいったと思う」と反省の弁も述べ「あれが父馬のトウショウボーイのようなスタートダッシュのある馬だったら、あの戦法だけじゃない競馬ができたんだと思うんだ」と語ってます。
その一方、ミスターシービーをスプリンターと評した中島啓之氏は「その馬をもってして、前半を遊ばせて、だましだまし走らせて、後半一気に追って菊花賞を獲らせた。これはマーちゃん(吉永)の腕があったればこそだと思います。マーちゃんが乗ったから四冠も獲れた。僕ら他の騎手が乗ったら、こんな真似はできなかったはず」と語り、吉永騎手を「天才」と評しました。
また大川慶次郎氏も「ミスターシービーの三冠というのは、吉永さんが獲ったんじゃないか」と評価しており、当時「ミスターシービーの鞍上を岡部騎手に変えたらもっと成績が良くなるはずだ」ということを言っていた口性ない新聞記者がいた事を明かし、これに対してそういうことではないと思っていると述べてます。

馬の為を思ってジャパンカップや有馬記念を回避したら叩かれた訳です。
その後中長距離のレースに出場し、2000mの天皇賞以外は勝てなかったミスターシービー。
もし、本来の適性距離だったかもしれない短距離やマイルのレースに出場していたら5冠6冠と勝てていたかもしれません。
もしマイル路線を歩んでいればとか、一個下にルドルフがいなかったら評価がもっと高くなったのでは?と未だに思う私です。
スタートが下手糞な馬だったので、出遅れが大きく響いてしまう短距離&マイルのレースで必ずしも結果が残せたとは断言出来ませんが、今だったら競馬ファンも当時よりかは知識が豊富になり理解を示してくれる方も多そうですし、無理なローテーションを歩む事を良しとする無知な記者や評論家も少ないと思います。
ある意味生まれる時代が早すぎたのかもしれません。
強さという点では皇帝には及ばないかもしれませんが、華やかさや可能性という点では負けていないはずです。
誰が何と言おうと私の中では名馬中の名馬です。
画質はあまりよくありませんが、JRAの公式チャンネルから当時のレースが視聴可能です。
「こんなところからよく差したな!?」という走りっぷりをご覧になって頂ければ幸いです。
それでは、良き競馬ライフをノシ

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