【名馬列伝】ビワハヤヒデ【BNW筆頭】
ラストレース以外は連対率100%で、BNWとして当時の競馬界を大いに盛り上げたビワハヤヒデの紹介記事となります。
◆生い立ち
本馬の母・パシフィカスは1990年にイギリスのニューマーケットで開催されたセリ市において、日本から参加していた早田光一郎氏に3万1千ギニー(約560万円)で落札されます。
当時無名の種牡馬シャルードの仔を受胎した状態で、日本への移動後は早田氏が経営する早田牧場新冠支場(北海道新冠町)へ運ばれ、出産を迎える予定でした。
しかし、バブル景気の好況で欧米から続々と繁殖馬が輸入されていた事で検疫許可が大きくずれ込み、成田空港到着時には出産予定日が間近に迫ってしまいます。
パシフィカスは急遽福島県の早田牧場本場に運ばれ、3月10日にイギリスからの持込馬として後のビワハヤヒデを出産。
こうした経緯からビワハヤヒデは戦後の競走馬としては数少ない福島県産馬となります。
※生後すぐに新冠支場に移動
生後間もない頃の評価は「体型的にも頭が大きくて、脚も太かった。規格から外れた感じ」との事でした。
競走年齢の3歳に達した1992年4月1日、同じ早田牧場が所有するビワミサキとともに、滋賀県栗東トレーニングセンターの浜田厩舎に入厩。
競走名は馬主の中島氏が使用する冠名「ビワ」に「速さに秀でる」との願いを込めた「ビワハヤヒデ」と命名されます。
入厩直後は、重賞優勝馬を兄に持つビワミサキの方に注目が集まりますが、デビュー前に当時小倉3歳ステークスを目標に調教されていたビワミサキの調教相手に浜田調教師はビワハヤヒデを抜擢し「1秒は遅れるだろう」と見てました。
結果はビワハヤヒデは半マイルからムチを50発以上受けながらもビワミサキに食らいつき「えらい根性のある馬だ。こりゃ、デビュー戦が楽しみだ」と浜田氏を感心させたそうです。
◆ジュニア期
8月デビューの予定でしたが、体調を崩したため9月にズレ込みます。
デビュー戦は2番人気でしたが、後続に大差を付けて圧勝。
続くOP戦もレコードタイムで勝利します。
3戦目は1400mという短距離のデイリー杯3歳ステークス(GⅡ)で、スピード不足が懸念されましたが、またしてもレコードタイムで勝利します。
4戦目は3歳牡馬ナンバーワン決定戦である朝日杯3歳ステークス(G1)で「オグリキャップ、メジロマックイーンの再来」とマスコミに書き立てられ断トツの1番人気となりますが・・・
ハナ差で2着に敗れてしまいます。
ですが、この時勝ったエルウェーウィンは外国産馬でクラッシックに出走は出来なかったので、依然ビワハヤヒデがクラッシック戦線において最有力な競走馬であった事には変わりありませんでした。
◆クラッシック期前半
クラッシック期初戦の共同通信杯(GⅢ)では、またしても断トツの1番人気ながらもハナ差で2着となります。
調整途上で本調子では無かった事もあり騎手のミスでは無かったとの事ですが、馬主の意向もあり次戦より岸騎手から岡部騎手に乗り替わりが発生します。
岡部騎手自体はビワハヤヒデに大きな期待を寄せていた訳では無かったそうですが、初のコンビとなる若葉S(OP)をサクっと勝った事と、岡部騎手の持ち馬が次々に故障した事もあり以降のレースは全て岡部騎手が騎乗する事になりました。
クラッシック初戦の皐月賞では、弥生賞を制したウイニングチケットに次ぐ2番人気となります。
レースでは先行集団を見る形で6番手につけて道中を進み、最終コーナーで2番手まで進出。最後の直線では伸びきれないウイニングチケットを尻目に半ばで抜け出しますが、後方から両馬の動きを窺っていた
ナリタタイシンが大外からとてつも無い脚で一気に追い込み、ビワハヤヒデはゴール直前でタイシンにクビ差かわされ2着に敗れます。
※ウイニングチケットは4着
ビワハヤヒデとウイニングチケットの二強争いと見られてた皐月賞はでしたが、ナリタタイシンが勝利したため「BNW」と称されたライバル関係が築かれる事になります。
皐月賞の後は日本ダービーです。
人気はウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンの順でしたが、その差は殆ど無く「三強対決」の様相を呈しておりました。
結果はウイニングチケットの勝利で、鞍上の柴田政人騎手は悲願のダービー制覇となりました。
ビワハヤヒデは春の二冠はどちらも2着という結果について、浜田調教師は「環境の変化による食欲減退が原因。決して力負けではない」と語ったモノの、一部のマスコミから「勝負弱い」「距離の持たないマイラー」「ダート馬ではないか?」と書き立てられてしまいます。
◆強化計画
日本ダービーの後、他の有力馬は夏の間の休養に入りますがハヤヒデは栗東に残り調教が続けられます。
秋になって本格的な調教が始まるに当たり、浜田調教師は切れ味に課題が残るハヤヒデに対し、ウイニングチケットやナリタタイシンに負けない瞬発力を身に付けさせようとハードトレーニングを行うことを決意します。
ハヤヒデが惜敗した皐月賞とダービーを前年無敗で優勝し、この年の5月に亡くなった戸山為夫氏の徹底した坂路調教で鍛えられたことで知られるミホノブルボンに倣い、従来の坂路2本を週6日というスケジュールを水・金・日曜日は3本に増やします。
当初ハヤヒデは苦しがる様子を見せ、3本追いの3本目には馬場入りを嫌がり動かなくなってしまうこともあったのですが、やがて調教タイムが如実に向上するなど成果が現れてイキます。
結果的にこのハードトレーニングが功を奏しハヤヒデはがっしりとした馬体に成長し、物音に対して臆病な面があった事から着用していたメンコも「外部との接触を多く持たせる事によって、勝負に敏感に反応させようという狙い」から外されることが決まります。
耳の部分に徐々に穴を開けていき、2週間で完全に取り外されます。
◆クラッシック期後半
強靭な肉体と精神力を手に入れたハヤヒデは秋初戦の神戸新聞杯(GⅡ)を勝利し、クラッシック最終戦の菊花賞へと駒を進めます。
ライバルのタイシンは不調だったため、ウイニングチケットとの一騎討ちになると予想されてました。
人気に関しては初めてウイニングチケットを抑えての1番人気となり、
前年ライスシャワーが出したレコードを上回るタイムで5馬身差をつけて圧勝します。
※ちけぞー3着、タイシン17着
勝ちタイムだけでは無く、上がり3ハロン34秒5は当時の菊花賞史上最速でもありました。
連対率100%の絶対の安定感に加え、短距離やマイルのレースで実績がある中、長距離だと更に強いハヤヒデはこの時点で本格化した印象でした。
この年の最終戦となった有馬記念では初の古馬との対決だったにも拘わらず、ハヤヒデは1番人気となります。
G1馬が多数出走したこのレースですが、ハヤヒデに勝てる馬がいるとは到底考えられませんでした。
「トウカイテイオー奇跡の復活!!」
まさか1年ぶりのレースであんな走りをするとは・・・
ハヤヒデ自体は3着のネイチャさんに3.1/2の差をつけておりますので、勝ったテイオーが凄すぎです^^;
しかし菊花賞のタイトルに加えてGI競走における3度の2着という安定した成績が評価され、安田記念、天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーを抑えて年度代表馬に選出されます。
そして最優秀3歳牡馬には朝日杯3歳ステークスに優勝した半弟のナリタブライアンが選出され「最強兄弟」として注目を集めます。
◆本格化したシニア期
シニア期初戦は京都記念(GⅡ)で、59kgというハンデを背負いながらも2着に7馬身差をつけて圧勝します。
翌日の共同通信杯でブライアンが勝利した事により兄弟で連日の重賞制覇を達成し、この兄弟に益々注目が集まります。
続く天皇賞(春)はウイニングチケットが出走を回避し、テイオーもライスも不在だった事もありハヤヒデが断トツの1番人気となります。
結果は2番人気のタイシンを抑え込む様な走りで勝利するのですが、このレースの前週にブライアンが皐月賞を制しており、アナウンサーの杉本清氏はゴール前で「兄貴も強い、兄貴も強い、弟ブライアンについで兄貴も強い」と実況をしたのが印象的でした。
宝塚記念はライバル不在とはゆえ、人気投票も馬券の人気も断トツで1番で迎えて5馬身差かつレコードタイムで圧勝します。
ブライアンもダービーを制しており、この時点で兄弟対決を期待していたファンも多かったと記憶しております。
◆叶わぬ夢
秋緒戦のオールカマー(GⅡ)ではウイニングチケットと有馬記念以来の対戦でしたが、同馬に1馬身3/4差をつけて勝利します。
ですが減った馬体重が思う様に戻らない状態が続き、陣営&騎手共に不安を感じていたとの事でした。
この後は天皇賞(秋)→有馬記念というローテーションを予定していたそうで「ブライアンとの対決を万全の状態で臨みたい」との事で、ジャパンカップはスルーする予定だったそうです。
陣営も強く意識していた様ですし、我々ファンも兄弟対決を心待ちにしておりました。
結果は5着。
生涯で初めて連対を外す事になります。
競走後に左前脚に屈腱炎を発症していることが判明し、引退となります。
ちなみにウイニングチケットも同レースで屈腱炎を発症し引退となりました。
◆引退後
種牡馬実績としては、デビュー前後の評価が高い馬が多かったのですが、重傷を制覇する様な子は生まれませんでした。
種牡馬を引退した後は日西牧場で功労馬として余生を過ごす事となります。
2010年7月25日にはウイニングチケットと共に函館競馬場に来場し、2頭共に開門直後からふれあいパドックに姿を見せ、昼休みにはパドックを周回してファンにお披露目されました。
◆顔の大きさ
身体面の特徴では顔が大きいことがしばしば取り上げられ、チャームポイント、あるいは揶揄の対象となってました。
アナウンサーの杉本清氏はハヤヒデがメンコを外した神戸新聞杯で「これには驚きました。何に驚いたって、デカい顔にです」と振り返り、顔立ちは男前だけど大きくて長い顔としながらも、当時仲間と「写真判定になったら得するのではないか」と言い合っていたことを明かしてますw
ライターの阿部珠樹氏は「岡部騎手を乗せたビワハヤヒデを見ると、騎手の胴体よりも馬の顔の方がはるかに大きく、長く、思わず笑わずにはいられなかった」としつつ、ハヤヒデに女性ファンが多かったことについて「その顔がもたらすおっとりした雰囲気のせいもあっただろう」と述べてます。
◆バナナ好き
無類のバナナ好きだったそうで、差し出されると食べかけのニンジンを吐き出してまでバナナを優先する程だったそうです。
◆葦毛の系譜の終焉
デビューから引退まで一線で活躍し続け、短距離の1400mから長距離の3200mまで4度のレコード勝利を挙げた実績から「万能の名馬」と評され、岡部騎手は「中距離ならルドルづ級で、安定感も含めればテイオー以上の馬」と語っておられます。
そんなハヤヒデはタマモクロスから始まり、オグリキャップ、メジロマックイーンと続いた「芦毛の王者」の系譜に連なるとされ、、自身の引退により「芦毛の時代」が終わりを迎えたとされてます。
後にマックイーンの孫となる葦毛のゴールドシップが多大な実績を挙げますが、それは20年近く後の話です。
マスコミやライターから悪口を言われる事の多かったハヤヒデですが、多くのファンから愛された馬であった事は確かです。
葦毛で強い馬という時点でかなり限定されてますので、人気が無い訳がありませんよねw
馬券的に大変お世話になったハヤヒデには今でも感謝しております。
有難うビワハヤヒデ
それでは、良きウマ娘ライフをノシ